Masuk翌日の午前九時、御堂ライフスタイル本社では、予定になかった臨時会議が開かれていた。
発端は、アルカディア・グローバルから届いた一通のメールだった。
今回のMIO復帰に伴い、共同ブランド事業の契約内容を再確認したい。
文面だけなら穏当だった。契約解除を求められたわけでも、条件変更を突きつけられたわけでもない。それでも、会議室に集まった役員たちの表情は硬い。
理由は単純だった。
御堂ライフスタイルが今後数年の成長戦略の柱に据えている新規事業の中で、アルカディアとの共同ブランドは最重要案件の一つだったからだ。
「改めて数字を確認します」
事業企画本部長がモニターへ資料を映した。
「MIO監修の新ラインについて、国内だけで初年度売上百八十億円、三年目に三百億円規模を見込んでいます。海外展開まで含めれば、さらに上振れする可能性があります」
第28話 天才外科医 翌朝七時を過ぎた頃、アルカディア・グローバルの広報室では、通常業務が始まる前から電話が鳴り続けていた。 きっかけは、一つの海外医療誌の記事だった。『世界的デザイナーMIOは、形成再建外科医・佐伯澪なのか』 タイトルだけなら、これまでネット上に出ていた憶測と大差はない。 違ったのは、中身だった。 記事には五年前の国際形成再建外科学会の記録が掲載され、登壇者一覧には「Mio Saeki, M.D.」の名前が残っている。さらに、当時の講演要旨、共同研究論文、海外医療機関との症例検討会の記録まで丁寧にたどられていた。 決定打になったのは、医学界では著名な海外の外科医が取材に対して語った一言だった。『もちろん知っている。佐伯澪は、私たちの分野では以前から名の知られた外科医だ』 記事は午前六時台に配信され、一時間もしないうちに日本語へ翻訳された。『MIO、実は外科医だった』『世界的デザイナーのもう一つの顔』『医療界では有名人? 佐伯澪の過去を追う』 そこまでは、まだ澪にも予想できた。 問題は、その後だった。 過去の医学論文を読める人間が内容を解説し始め、医療従事者が次々と反応したのである。『学生時代に佐伯先生の講演を聞きました』『熱傷後再建の研究で名前を知っている』『MIOと同一人物だとは本当に気づかなかった』『昔、一度だけ合同カンファレンスで見た。判断が恐ろしく速かった人』 中には、澪自身が忘れているような記録まで掘り起こす者が現れた。 そして午前八時。 国内大手ニュースサイトの一つが、とうとう見出しへ大きくその言葉を使った。『世界的デザイナーMIO、実は“天才外科医”だっ
第27話 佐伯先生 翌朝、澪が目を覚ました時には、スマートフォンの通知が百件を超えていた。 昨夜は蓮司との約束通り、帰宅してから仕事を開かなかった。久我から届いた「モデルは点滴後に症状改善、帰宅可能」という連絡だけを確認し、久しぶりに日付が変わる前にベッドへ入った。 その結果、朝になって現実がまとめて押し寄せてきた。『MIOは現役医師?』『病院で「佐伯先生」と呼ばれる世界的デザイナー』『医学論文に同姓同名の研究者、本人なのか』『形成再建外科とMIOの医療衣料、その意外な接点』 見出しだけならまだ推測の域を出ていない。昨日病院にいた人間がSNSへ書き込んだらしく、昔の学会記録や論文を探し出した者がいるものの、顔写真の残っていない資料も多く、アルカディアも病院も本人確認には応じていなかった。 それでも、時間の問題だと澪には分かった。「思ったより早いなあ……」 ベッドの上で呟き、髪を掻き上げる。 秘密を守りたいというより、順番の問題だった。 MIOとして戻ったばかりだ。 離婚協議も終わっていない。 臨床へ本格的に戻るかどうかさえ、自分で決めていない。 そんな状態で「天才外科医MIO」などという分かりやすい看板を世間に作られるのは、ひどく落ち着かなかった。 スマートフォンが鳴る。 神崎だった。「おはようございます」『声を聞く限り、寝ましたね』「第一声がそれですか」『昨日休めと言った人間としては重要です。ネットは見ました?』「今見ています」『アルカディア広報は、現時点で医療経歴についてコメントしません。MIOとして発表済みの活動だけ回答します』
第26話 あなた、医者なの? 東都国際医療センターへ着いた頃には、撮影スタジオを出てから三十分近くが経っていた。 澪は車が正面玄関へ着く前に、久我から届いたメッセージをもう一度確認した。『意識清明。循環動態は安定。重篤な不整脈なし。採血結果待ちです。現時点では脱水、鉄欠乏性貧血、摂取不足が主因として考えやすいですが、念のため経過観察します』 少なくとも命に関わる状態ではない。 その一文を頭の中で確認して、ようやく肩の力が少し抜けた。「状態は?」 隣から蓮司が尋ねる。「今のところ安定しています。重い心臓の異常も見つかっていないそうです」「そうか」 蓮司も明らかに安堵した。 撮影中に倒れたのはアルカディア側が手配したモデルだが、御堂ライフスタイルとの共同事業で起きた事故でもある。会社として病院まで来ること自体は不自然ではない。 ただ、蓮司がわざわざ自分と同じ車へ乗る必要まではなかった。「ここからは私だけでも大丈夫ですよ」 澪が言うと、蓮司は窓の外を見たまま答えた。「会社として説明を聞いてから帰る」「本当に半分は仕事なんですね」「残り半分ももう言っただろ」「心配だから?」「ああ」 最近は、こちらが困るくらい素直だ。 澪はそれ以上何も言わず、車が停止するのを待った。 病院の自動扉を抜けた途端、独特の空気が身体にまとわりつく。 消毒薬の匂い。 低く抑えられた話し声。 遠くから聞こえるストレッチャーの車輪の音。 案内表示。 白衣。 ナース
第25話 倒れたモデル 翌朝八時、撮影スタジオにはすでに大勢のスタッフが集まっていた。 アルカディアと御堂ライフスタイルの共同ブランド、その新作を使った最初の大規模な広告撮影である。白い壁と高い天井に囲まれたスタジオには照明機材が並び、衣装ラックの間をスタイリストやメイク担当者が忙しく行き来していた。 澪は予定より三十分早く入り、昨夜手直しした衣装を一着ずつ確認していた。「右肩、もう一度上げてみてください」 昨日、着用時の違和感を訴えたモデルが腕を上げる。「どうですか?」「昨日より全然いいです。引っかかりません」「痛みは?」「ないです」「なら大丈夫そうですね」 澪は縫い目へ指を滑らせ、念のため本人が腕を前後へ動かすところまで確認した。 見た目だけ美しくても意味がない。 写真では一瞬しか残らなくても、その一瞬のために着る人間が苦痛を我慢する服を作りたいわけではなかった。「澪さん」 背後からスタッフに呼ばれる。「御堂ライフスタイルの皆さんがお見えです」「もう?」「九時予定だったんですが、社長も一緒です」 澪の手が止まった。「蓮司さんも?」「はい」 共同事業の最初の広告撮影なのだから、社長が視察に来てもおかしくはない。 おかしくはないのだが。「仕事です」 自分に言い聞かせるように呟くと、隣のスタイリストが不思議そうに振り向いた。「何がです?」「何でもありません」 数分後、蓮司は片桐と商品開発担当者を連れてスタジオへ入ってきた。 澪と目が合う。「おはよ
第24話 後悔の始まり 澪との協議を終えて社長室へ戻った蓮司は、机の上に置かれた書類を一枚も読めないまま、十分以上同じページを眺めていた。 普段なら考え事を抱えていても、仕事を始めれば頭は切り替わる。数字は数字として処理し、判断すべきことを先送りにはしない。それができるから、この年齢で御堂ライフスタイルを任されてきた。 しかし今日は駄目だった。『離婚は撤回しません』 澪の声が、何度も戻ってくる。 冷たく突き放されたわけではない。 むしろ逆だった。 自分が変わり始めたことを認めてくれた。嬉しいとも言ってくれた。別の女を好きになるのは嫌だとまで言った。 それでも、離婚する。 その事実が、蓮司にはまだうまく理解できなかった。 仕事なら、改善が認められたなら次の機会がある。 失敗の原因を修正し、相手の要求を満たせば、交渉を続けられる。 だが結婚は違うらしい。 今から正しいことをしたからといって、それまでの三年間が帳消しになるわけではない。 むしろ澪は、今の自分を見ているからこそ離婚したいと言った。 夫婦という形から一度離れなければ、この変化が本物なのか分からない。 理屈としては理解できる。 感情は、まったく納得していなかった。「社長」 片桐の声で、蓮司はようやく顔を上げた。「何だ」「同じページを十五分ほどご覧になっています」「見ているだけだ」「読んではいらっしゃらないようですが」「お前は監視員か」「秘書です。十五時の経営会議が五分後ですので、一応お知らせしました」 蓮司は腕時計を見る。 本当に五分前
第23話 離婚は撤回しません 三日後、二度目の正式な離婚協議が行われた。 場所は前回と同じ、御堂ライフスタイル本社の来客用会議室だった。 窓の外には秋晴れの東京が広がり、遠くのビルまでくっきり見える。澪は星野弁護士と並んで座りながら、テーブルの上に置かれた合意書案を一枚ずつ確認していた。 財産分与については、澪が請求しない意思を明確にした上で、将来的な争いが起こらないよう文言が整えられている。御堂家から贈られた宝飾品や衣類についても、所有権の確認が済んだ。婚姻中に共同名義で取得した不動産はなく、子供もいない。 法律上だけを見れば、二人の離婚は驚くほど簡単だった。 難しいのは、紙に書けない部分ばかりだ。「こちらについては、双方異議なしということでよろしいでしょうか」 星野が尋ねると、蓮司側の藤原弁護士が頷いた。「問題ありません」「御堂さんも?」「ああ」 蓮司は短く答えた。 今日は仕事の時と同じ濃い色のスーツを着ている。表情も落ち着いているが、机の端に置かれた離婚届には、まだ署名がない。 澪はそこを見ないようにしていた。 合意書がまとまれば、残るのは署名だけになる。 蓮司が書けば終わる。 書かなければ、さらに話し合うことになる。「では最後に、届出時期について確認しましょう」 藤原が言った。 やはりそこへ来る。「佐伯さん側は、合意書締結後できるだけ早く、というご希望で変更ありませんか」「ありません」 澪は迷わず答えた。 蓮司の指が僅かに動いた。「御堂さんは?」 藤原に尋ねられ、蓮司は数秒黙っていた。「その前に、一つだけ澪







